05月31日(火)
写真は震洋艇のスクリューです。震洋艇とは、海軍の水上特攻艇で艇首に250kgの炸薬を搭載し、敵の揚陸部隊に対して体当たり攻撃するものです。本土決戦に備え、鹿児島県内には数多く震洋艇基地が造られました。本土決戦の前に終戦を迎えたため、配備された震洋艇は海没処分されました。このスクリューは戦後に海底から引き揚げられたものです。
今日の平和会館
写真は震洋艇のスクリューです。震洋艇とは、海軍の水上特攻艇で艇首に250kgの炸薬を搭載し、敵の揚陸部隊に対して体当たり攻撃するものです。本土決戦に備え、鹿児島県内には数多く震洋艇基地が造られました。本土決戦の前に終戦を迎えたため、配備された震洋艇は海没処分されました。このスクリューは戦後に海底から引き揚げられたものです。
戦争と聞くと、空襲被害を想像する方も多いと思います。知覧飛行場も度重なる空襲を受けましたが、時期により特色があります。昭和20年3月18日の初空襲から6月上旬までは航空戦力の撲滅を目的にした米艦載機が飛来、6月中旬以降は沖縄本島からの極東航空軍(米陸軍)による施設に対する空襲を受けました。
沖縄戦における陸軍特攻作戦では、台湾の飛行場からの出撃も行われました。
昭和20年5月29日には、飛行第20戦隊の5名が宜蘭から出撃しています。
その一人である山田三郎少尉の遺書と葉書が、遺品室8コーナーに展示されています。
先日、平和公園桜並木の駐車場横に複合型テレワーク施設「379 WORK TERMINAL PACBO」がオープンしました。レンタルオフィスとして使えるほか、カフェテリアもあり、ちょっとした食事・休憩にも利用できます。平和会館にお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。
8コーナーに小さな女の子と特攻隊員とが一緒に写った写真があります。昭和20年5月27日に出撃した渡辺綱三少尉の遺品です。小さな女の子は妹さんです。妹へ送った葉書を紹介します。「きのいちゃん元気かね 今の頃は毎日きのいちゃんの夢ばかり見て居ります(中略)兄さんは今から遠い遠い国に行きます もう会ひませんね では御元気で サヨーナラ 兄より」
5月24日に熊本県の健軍飛行場から出撃した義烈空挺隊は97式重爆撃機を使用しています。爆撃機なので、本来は爆弾を搭載し、敵地奥深くを爆撃する飛行機です。特攻作戦では爆弾の代わりに戦闘要員12名、パイロットが2名搭乗し、米軍に占領された沖縄の飛行場に胴体着陸を試みました。
5月24日に熊本県健軍飛行場から沖縄に向け出撃した義烈空挺隊12機は、途中、4機が故障のため帰還、7機は上空で撃ち落され、残り1機が北(読谷)飛行場に胴体着陸しました。
戦後、日本が入手した連合軍資料には、胴体着陸した飛行機から少なくても8名の武装兵が躍り出て、手榴弾及び焼夷弾で攻撃し、33機の飛行機が破壊・損傷、ドラム缶600個分のガソリンが炎上したと記されています。
昭和20(1945)年5月24日は、奥山道郎大佐以下136名で編成された義烈空挺隊が熊本県健軍飛行場から米軍に占領された沖縄北・中飛行場に向け出撃しています。
義烈空挺隊は、敵飛行場に着陸し、小部隊毎に組織的に突入するものでした。
先日、東京国立博物館の大講堂で開催されたICOM日本委員会主催「国際博物館の日シンポジウム」に出席しました。今年のテーマは「The Power of Museums」、博物館として社会にできることや今後の博物館の在り方に関する講演・対談が行われました。
知覧特攻平和会館も、特攻の史実を語り継ぐ博物館施設として一層頑張っていきたいと、気が引き締まる思いでした。
青空の広がる朝を迎えています。今日は、知覧平和公園球場ではソフトボール大会が開催されており、元気な声が聞こえています。梅雨前の晴れ間・・・外をゆっくりと歩くなど気持ちが良さそうですね。
当館に展示している陸軍四式戦闘機「疾風」は、世界に唯一現存するもので、細心の注意を払って保存に努めています。77年前の今日、飛行第29戦隊の浅野史朗大尉(愛知県)、指方久少尉(長崎県)、浜島長吉少尉(鹿児島県)、誠第34飛行隊の北原賢一大尉(福岡県)が台中から疾風で出撃し特攻戦死されています。
出撃する前、義烈空挺隊がそれぞれの故郷の方角に向かって別れの礼をする有名な写真があります。その写真は、従軍カメラマン・小柳次一によって撮影されました。
書籍『従軍カメラマンの戦争』では、小柳次一が義烈空挺隊の様子を写した多くの写真が掲載されています。
宮崎県川南町にある空挺落下傘部隊発祥地の記念碑の下に、短歌が刻まれています。
この短歌が詠まれたのは、昭和19(1944)年12月5日です。この翌日に、高千穂部隊の名で知られる第2挺進団がレイテ島の戦況を挽回するため、フィリピンのアンヘレス飛行場から特攻出撃しました。
高千穂部隊に続いて、第1挺進団も「義烈空挺隊」として翌年の昭和20(1945)年5月24日に沖縄の飛行場に向けて特攻出撃することになります。
昨日、宮崎県川南町へ現地調査に行きました。
川南町は空挺落下傘部隊発祥の地で、川南護国神社の裏にその記念碑が建てられています。元々軍馬を補充する広大な牧場でしたが、昭和16(1941)年から転用され、落下傘部隊の訓練が開始されました。現在川南町に住む方は、当時の様子を知る祖母から「白いパラシュートを広げて降りてくる訓練の様子が花のようだった」と聞いたそうです。
今週、戦跡の一つである防火水槽周辺の草払いを行いました。
この防火水槽は直径約10mあり、中を覗いてみるとお椀型に造られているのが分かります。ぜひ知覧にお越しの際は近づいてご覧いただければ幸いです。
特攻機の多くは戦闘機を使用しています(従来の飛行機に爆装したのが特攻機になります)。しかし、偵察機を特攻機として使用した隊があります。司偵振武隊です。隊員がのこした遺詠を紹介します。「己が身は 九段に馨る 櫻花 今日を名残りと 空母にぞ散る 熱田軍曹」。当館、6コーナーにご遺影と遺詠を展示しています。
新型コロナウイルスはまだまだ収束の兆しが見えず、鹿児島県でも新規感染者が高止まりの状態です。当館内では、展示フロア各場所に手指消毒液を設置しておりますので、御利用下さい。また感染予防対策として、お客様には必ずマスク着用と来館記録票への氏名・連絡先記入(代表者1名で可)をお願いいたします。
本日、午前10時30分と午後2時からの2回、企画展講座「伊舍堂中佐と誠第17飛行隊の軌跡」を当館講話室において開催します。
約30分間の講座で伊舍堂中佐の軍歴を中心に、誠第17飛行隊の編成経緯などについて当館学芸員が詳しく解説します。
各回定員30名で入館料のみで参加できますので、是非、ご聴講ください。
十代、二十代の特攻隊隊員の多くは独身でしたが、なかには婚約者や妻子のある隊員もいました。
昭和20年(1945)年5月11日に6名の部下と出撃した荒木春雄大尉は新婚1ヶ月でした。出撃の前日に面会した渡辺利徳少尉は、「荒木大尉は、部下思いの若者で、飛行服の左の物入れに大切に納められた夫人の写真を見せてもらった。」と記しています。
鹿児島県奄美地方も梅雨入りし、九州南部もそろそろ梅雨入りの時期となりました。今日の知覧は朝から雨が降り続いています。ご来館の際は、足元にお気を付けてお越しください。
知覧特攻平和観音堂の周辺には、陸軍沖縄戦で戦死された特攻隊員の鎮魂と平和を祈念するため、全国の遺族・関係者・有志から寄進された石灯ろうが建立されています。
先日は、南九州市立頴娃中学校の1年生105名が来館され、語り部の講話の聴講や戦争史跡の見学後、石灯ろうの清掃を行いました。
昭和20(1945)年5月11日から第七次航空総攻撃が開始されます。
出撃前日、野上康光少尉は、佐賀県目達原飛行場から知覧へ前進中に編隊から離れ、実家のある熊本県鹿央町(現在の山鹿市)に向かい、母校の小学校や中学校の上空を何回も旋回し、実家近くの畑にハンカチで作った落下傘を投下しました。つり下げられた筆記板には、父に宛てた最後の言葉が記された遺書が入れられていました。
昭和20(1945)年5月3日から9日は、沖縄守備部隊三十二軍と協力するかたちで、第六次航空総攻撃が行われました。
5月6日には知覧基地から池田元威大尉を含む12機が出撃しています。池田大尉が母親に宛てた手紙からは、陸軍士官学校出身者らしい勇みこんだ決意と母親だけには認めてもらいたい、心配させまいとする孝行心がうかがえます。
新緑がまぶしい季節となりました。平和公園内の木々の鮮やかな緑、少し進むとひろがるお茶畑の美しい緑。当館へお越しの際は、ゆっくりと周辺を散策し、ぜひこの季節をお楽しみください。
昭和20年5月4~9日にかけ、第6次航空総攻撃が行われました。5月4日に出撃した安部正也大尉の遺詠を紹介します。「命降る 今ぞ比の身を捧ぐれば 皇國は永久に栄へまつらむ」
安部大尉は4月29日に知覧飛行場から出撃しますが、機体のトラブルで黒島に不時着します。島の青年に舟を出してもらい知覧に戻り、5月9日に再出撃をしました。その途中、黒島で火傷を負って寝込む特攻隊員に薬を投下したエピソードが残されています。
ゴールデンウィークも終盤に入り、連日、多くの方に来館いただいております。
昭和20年(1945)年5月6日は、前日の大編隊による襲撃で知覧飛行場の周辺の集落も大きな被害をを受けたこととから、被災状況の調査が行われています。
現在、知覧特攻平和会館は東京都新宿区にある平和祈念展示資料館にて、交流展「息子として、兄として、父として―特攻隊員が遺した言葉」を開催しています。
本日、交流展の関連企画として、当館の語り部が平和祈念展示資料館内ビデオシアターで講話を行っております。(写真は11時の回の様子・平和祈念展示資料館提供)14時からの回を同館のYouTube公式チャンネルにてライブ配信いたします。下記のURLから観覧が可能ですので、ご関心のある方は、ぜひご覧ください。
昨日(5月3日)は、第68回目の「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」が平和会館隣の特攻平和観音堂で開催されました。遺族・関係者約200人が参列し、沖縄戦で亡くなられた1036人特攻隊員の冥福を祈り、慰霊しました。過去の戦争を体験した世代が少なくなり、年々参加者は少なくなってきておりますが、これからも特攻隊員の想いを、後世に伝えていきたいと思います。
本日、5月3日は平和公園内の知覧特攻平和観音堂において、知覧特攻基地戦没者慰霊祭が執り行われます。昭和30(1955)年に始まり、今年で68回を数えます。コロナ禍による制限はあるものの、遺族・関係者の参列は3年ぶりとなります。
令和4年8月15日(月)に第33回スピーチコンテストが開催されます。当日は、審査を通過した作品を知覧文化会館にてスピーチ発表していただくほか、その様子をインターネットライブ配信いたします。
いのち・平和について多様な視点から考え、平和へのメッセージとしてまとめられた作品を5月27日(金)まで募集していますので、たくさんの応募をお願いします。
本日から5月です。77年前の沖縄では第32軍司令部が置かれた首里北部において日本軍と米軍との激戦が繰り広げられ、4~5月は特攻攻撃が大規模に行われました。しかし、5月末に第32軍司令部が南部に撤退すると沖縄戦の趨勢はほぼ決したため、本土決戦に備えるために特攻の規模は縮小されていきました。