09月30日(木)
今日平和会館の周囲を見回ってみると、本来春に咲く桜の幹から、小さく花が咲いているのを見つけました。暖かい日が続いていたことに関係しているのでしょうか。
平和会館では春の桜並木がよく知られていますが、裏にある公園には、10月に咲く桜も植えられています。当館にお越しの際は、周りの公園もぜひ散策してみてはいかがでしょうか。
今日の平和会館
今日平和会館の周囲を見回ってみると、本来春に咲く桜の幹から、小さく花が咲いているのを見つけました。暖かい日が続いていたことに関係しているのでしょうか。
平和会館では春の桜並木がよく知られていますが、裏にある公園には、10月に咲く桜も植えられています。当館にお越しの際は、周りの公園もぜひ散策してみてはいかがでしょうか。
企画展「海底からの証言-誠飛行隊とUSSエモンズ-」は、9月30日までの開催です。開催期日が残りわずかとなりましたが、本日と明日、御来館予定のお客様におかれましては、最後の機会となりますのでぜひ御見学ください。
朝、平和会館隣のミュージアム知覧の方向に、うっすらと虹が架かっていました。写真の中央に映っていますが、お分かりでしょうか。今日は何か良い事が起こることを期待したいです。大型の台風もそれる気配で、徐々に秋が近づいており、過ごしやすい気候になってきました。
当館の裏に大きなイチョウの木があります。銀杏がなり、道にたくさん落ちていましたので職員で清掃を行いました。鹿児島はまだまだ暑い日が続いていますが、イチョウから秋の訪れを感じます。
本日も青空の広がる、さわやかな朝を迎えています。
現在開催している企画展「海底からの証言~誠飛行隊とUSSエモンズ~」は、9月末までとなっています。貴重な資料や映像・写真を展示しておりますので、ぜひこの機会にご覧ください。
みなさまのお越しをお待ち申し上げております。
次回企画展のチラシとポスターが刷り上がりました。
11月から開催予定の企画展では、米国国立公文書館で収集・調査した、特攻に関する資料をご紹介します。案内チラシは館内のロビーに設置してありますので、ご興味のある方はぜひお手にとっていただければと思います。
HPにも予告ページを掲載しました。
昨日の記事と関連して、飛行場の門柱をご紹介します。この門柱には、「大刀洗陸軍飛行学校」と書かれています。
知覧には、陸軍のパイロットを養成する飛行学校がありました。昭和16(1941)年12月に開校されたこの学校で、パイロットを目指す生徒たちは航空機の操縦に必要な基本技術だけでなく、気象学や機体の仕組みなどの知識を学びました。しかし、戦況の悪化で飛行学校は廃止され、知覧飛行場は特攻基地としてその姿を変えていくこととなります。
平和会館の周りには、このような知覧飛行場跡地の戦争遺跡が数多く残されています。館内では案内マップを配布しており、最短40~50分ほどで周れるコースをご紹介しております。ぜひ訪ねてみてはいかがでしょうか。
知覧特攻平和観音堂の参道脇に知覧飛行場の門柱があります。その後方に大きな「知覧教育隊之記念碑」とその隣に小さな「副碑」が建立されています。「副碑」は中空になっており、そこには記念碑建立の経緯が記された資料、関係者の名簿が収められています。関係者の多くは鬼籍に入りましたが、記念碑とその記録がこの場所に残されています。
今日は、「銃」と「砲」の違いを話題にします。平和会館には、陸軍と海軍それぞれの戦闘機を展示しています。陸軍四式戦闘機「疾風」の説明パネルでは「機関砲」と説明していますが、海軍零式艦上戦闘機に装備されているものは「機関銃」です。実は、当時の日本軍では、陸軍と海軍で基準が異なっていました。例えば零戦に装備されている13㎜機関銃は、陸軍では13㎜機関砲。海軍では40㎜未満を銃としていたのに対し、陸軍では13㎜以上を砲と位置づけていました。展示の中で、同じ13㎜でも「銃」と「砲」を書きわけているのは、陸軍と海軍の基準の違いによるものなのです。
平和会館に隣接する知覧護国神社の境内に、戊辰戦争から太平洋戦争に至るまでの慰霊碑、記念碑があります。先日、それぞれの石碑の前に、日本語と英語で書かれた案内板が設置されました。当館にお越しの際には、こちらも御見学ください。
昭和20年当時、知覧飛行場に展開していたのは特攻隊だけではありませんでした。特攻機の誘導や掩護、戦果確認を行う飛行戦隊、飛行機の整備、点検、補給を行う整備隊、他の飛行場や飛行機との通信を行う通信隊、飛行場の防空を担う高射砲部隊、飛行場の整備を行う工兵隊、本土決戦に備える部隊などが駐屯していました。
写真は、館内で展示している飛行戦隊を紹介するパネルです。
澄んだ秋空が美しい朝を迎えています。朝晩はだいぶ涼しくなり、まだまだ暑い日中にも風に秋を感じるようになりました。
当館は、本日も感染対策を徹底しながら通常通り開館しております。皆様のお越しをお待ち申し上げております。
館内に海から引き揚げられたトラックのエンジンが展示してあります。これは海軍の水上特攻艇「震洋」に搭載されていたものです。2基搭載し、約60km/hの速度が出るようになっていました。昭和54年に鹿児島県坊津町にあった基地跡の海底から引き揚げられたものです。
昭和20年当時に、米軍の偵察機が撮影した知覧飛行場北側部分の写真です。写真の左側に、〇で図示した場所に高射砲陣地がありました。一昨日の記事で紹介した益田隊慰霊碑は、この場所です。米軍が撮影した写真に、知覧飛行場の各施設がどこにあったのかを図示したものを、当館遺品室の出口付近で展示しております。
昨日は、鹿児島国際大学(3年生)の2人がインターンシップ職場体験で、知覧特攻平和会館業務のお手伝いに来てくださいました。館内の清掃・消毒の拭き掃除など丁寧に一生懸命、作業に取り組んでいました。また礼儀正しい挨拶等、私も自分の子供が同世代ですが、見習ってほしいなと感じることでした。
「益田隊慰霊碑」は、米軍空襲により戦死した高射砲部隊隊員を弔う慰霊碑です。知覧では、昭和20年3月から空襲が始まったことを受けて、飛行場の上空を守るために、飛行場周辺に高射砲部隊が配備されていました。ところが、5月5日の空襲で、飛行場の北側にあったここの陣地に、米軍の爆撃機から投下された爆弾が直撃し13人(または7人)が戦死しました※。戦後、部隊の隊長であった益田氏が「益田隊忠魂碑」と墨書した墓標を立て慰霊しました。現在は、平成2年に知覧町が建立した慰霊碑が建っています。
※当初は7人とされていましたが、現在の慰霊碑には13人と明記されています。
館内各所に、手指消毒用のアルコール液を置いています。入館時に消毒していただくことはもちろんですが、映像スタートボタンなどを触れた後にも消毒をしていただくことができますので、どうぞ御利用ください。コロナ禍が続いておりますが、当館でも感染症対策には十分に配慮しながらお客様を迎える準備を日々整えておりますので、お客様におかれましては御理解、御協力のほどをよろしくお願い申し上げます。
零戦展示室に展示している、旧海軍の零式艦上戦闘機です。館内ではロビーと、この零戦展示室のみ写真撮影をすることができます。戦後、海底に沈んでいたために、機体の多くは腐食していますが、現存している金属は超々ジェラルミン素材と思われます。主翼の表面には、日の丸を描いた赤い塗料が残っています。御来館の際には、金属の厚みや構造などを近距離で見ていただくだけでなく、その質感を感じていただければと思います。
知覧は朝から雨が強く降っています。写真でははっきりと写せませんでしたが、一時は雨粒で遠くの景色が見えなくなるほどに真っ白になっていました。
台風14号も接近しており、今週は雨が続くとの予報が出ております。夏が終わり秋を迎えるこの時期になると台風の発生も増え、鹿児島を通過することも多いです。知覧にお越しの際は、天気予報もあわせてご確認ください。平和会館の開館状況は、このHPのTOPページで随時お知らせしております。
昨日、ふと空を見上げると、平和会館の上空に南へ向かう飛行機雲が描かれていました。昨年新しく作った「知覧特攻平和会館ロゴマーク」は特攻機が飛び立つ飛行機雲をイメージしています。コロナ禍で気持ちが沈みがちですが、空を見上げて、流れる雲や飛行機を「ぼぉ~」と眺めてみてはいかがでしょうか?ただ鹿児島は今日から数日間、台風の影響でしばらく雨天が続くようです。
特攻隊員の遺品の一つに、軍刀があります。日本陸軍の軍刀は、明治の初めには西洋式のサーベルでしたが、西南戦争を経験することで日本刀が見直されるようになり、昭和初期には日本刀とほぼ同じ形の軍刀が使用されていました。基本的には、軍刀を着用できたのは下士官以上の将校だったようです。終戦後に各地の戦場で降伏の証として、指揮官が軍刀を差し出した事例もあったようですが、当時の軍人にとっての軍刀は、いわば士分の証という側面もあったのではないかと思われます。
特攻隊員の遺品の中にみられる、戦国時代以来の風習の名残りは他にもあります。特攻隊員の戦死後、遺族の元にはこのような「感状」が贈られました。感状とは、戦場における功績を賞して与えられる文書のことです。日本の歴史上、戦国時代と近代に多くみられた風習です。特攻隊員の遺品にある感状は、所属部隊名や戦地でどのような戦果を挙げたということが書かれ、それを称えて全軍に知らせるという内容です。末尾には、感状の発行者である指揮官の氏名と花押(サイン)が記されました。
引き続き、盃(杯・さかずき)の話題です。特攻隊の時期よりも少し前の話になりますが、徴兵による2~3年の兵役についていた軍人は、除隊後に親戚や近所の方々に盃を贈る風習がありました。なぜそのような風習が生まれたのか、明確に説明している文章を見つけられていません。徴兵された方の出征には、家族・親戚・近所の方々が盛大に見送りをしていたことが伝えられていますが、その際、盃を交わすことが多かったのだと思います。日本人の精神文化の中に、出陣式における盃の意味がまだしっかり根付いていた時代ですので、生きて帰ってきたことを示す「形」として「盃を配る」=「返杯する」という行為が生まれたのではないかと推察しています。
昨日の記事で話題にした「かわらけ」です。ミュージアム知覧に展示されている資料で、戦国時代の山城である知覧城跡(国指定史跡)から出土したものです。「かわらけ」は、現在の紙コップや紙皿のように使い捨てだったそうです。
ミュージアム知覧は、知覧特攻平和会館の左隣にあり、民俗資料の比較展示が特徴的な博物館です。お得な共通券も販売しておりますので、見学御希望のお客様は受付にて共通券をお買い求めください。
遺品室の中央にある説明板の一部です。ここに、「出撃の盃」と題する写真があります。撮影された時間や場所は不明ですが、写真を見ると、建物内の中央に丁字形に配置された台の上に盃が並んでいます。出撃の前に、特攻隊員らが上官からの訓示を受けている様子が撮影されたとみられます。さて、このような盃を交わす行為は、昔、武士が戦にのぞむ際に行っていた出陣式、「三献」の名残りです。戦国時代のお城からは、儀式で酒を酌み交わすのに使用された盃である素焼きの「かわらけ」が大量に発掘されます。大事を前にして盃を酌み交わす行為は、現代でも神社や結婚式等でみられますが、昭和20年当時の軍人らが行っていた儀式も、そのような歴史の延長線上にあったのだと考えられます。
平和公園観光バス駐車場の観光案内所隣にある、お茶の急須のモニュメントです。観光案内所も最近はコロナ禍により、お客様の出入りは少ない状況です。通常なら9月~11月は秋の観光シーズンで人通りも多くなりますが、まだしばらくは、静かな状態が続きそうです。新型コロナウイルスの収束が待ち遠しいです。
76年前の9月2日、戦艦ミズーリ上で日本は降伏文書に調印を行いました。そのミズーリはハワイで記念艦として保存されています。沖縄戦初期の昭和20年4月11日、ミズーリは特攻機による攻撃を受けました。11月より、その日に焦点を当て、米国国立公文書館・特攻隊員の資料を紹介する企画展を開催します。ご期待ください。
先月15日から、オンラインミュージアムに新しい動画を追加公開しています。その中に、今年の春に開催した企画展「三十一音の遺書」の解説動画があります。企画展を担当した学芸員が展示室を案内する内容になっておりますので、ぜひ御覧ください。なお、詳しく資料を御覧になりたい場合には、図録を1冊500円で販売しております(写真参照)。遠方の方には、郵送での購入も対応いたしますので御連絡ください。0993-83-2525まで。
9月のカレンダーを見て、少しだけ感慨深く感じたことがあります。実はこのブログ「今日の平和会館」は、平成29(2017)年9月1日にスタートしてから昨日で丸4年が過ぎました。サイトを訪問してくださった方々と、ブログをとおしてつながりを持ち続けたいという思いから始まり、今に至ります。平和会館での日常業務や最新情報、資料や戦跡の紹介などのちょっとした話題をこれからもお届けしていきたいと思います。5年目に突入した「今日の平和会館」を、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
今日から9月に入りました。企画展「海底からの証言 誠飛行隊とUSSエモンズ」は今月末までの開催です。